【小西酒造】誰も歩いていない道を行く。伊丹のお酒の歴史【事業者紹介《伊丹》】
伊丹:小西酒造さんの「長寿蔵」に伺いました。
先日ブログを書いた「伊丹老松酒造」さんに伺ったあとです。
hyougonohanashi.hatenablog.com
老松さんから1分も歩けば到着。
13号線沿いです。尼崎からひたすら伊丹方面へ北上。
右手にニトリが見えたらその向かいって感じです。
伊丹空港とか近い。
【小西酒造さん】
小西酒造さん。
よかったらリンク先を見て頂きたい。
なんかね、「日本酒」のメーカーって「和の伝統」を打ち出したホームページが多い印象があるんです。稲の写真とか水の写真とかきれいに撮影して。
私個人的には飽きもせず、そういう写真大好きなんですが、小西酒造さんのホームページは一線を画しています。
「所せまし」とバナーを貼りまくり、おまけにフラッシュまで使って情報が溢れまくっていてどこから見ていいのかわからない笑。
私はなぜか「面白法人カヤック」という鎌倉の会社さんのホームページを伊丹の酒造メーカーのホームページで感じることになります。
そして!
【LINEスタンプも作っちゃう】
オリジナルLINEスタンプ!笑
会社の懐の広さを感じます!
【ビールも取り扱っちゃう】
小西ベルギービールホームページへようこそ - The Konishi Belgian Beer Site
なんと小西酒造さん、ビールも販売されています。
そしてそのビールが「ワ-ルドビアアワード」で金賞も取っておられます。
【ワールドビアアワードって?】
ワールド・ビア・アワード(WBA)は ワールド・ウイスキー・アワード(WWA)を開催する英国パラグラフ・パブリッシング社が年に1度開催するビールの世界的コンペティションである。
ビールは大きく8カテゴリーに区分され、さらに各カテゴリー内のスタイルに細かく分けられる。審査は4段階、すべてブラインドテイスティング(銘柄を伝えずに行うテイスティング方法)にて行われる。第1ラウンドは世界大会に向けた予選として、細かく分けられたスタイルごとに各国の「ベスト・スタイル(カントリーウィナー)」が選出され、世界の強豪と戦う各国の代表ビールが決定する。
第2ラウンド、ここからが世界の強豪同士が凌ぎを削る世界大会のスタートである。この第2ラウンドでは各国の「ベスト・スタイル」を獲得したビールをスタイルごとに競わせ「ワールドベスト・スタイル」が選ばれる。第3ラウンドではこの「ワールドベスト・スタイル」同士を各カテゴリー内にて競わせ8つの「ワールドベスト・カテゴリー」が決定する。そしてファイナルラウンドでさらにこの「ワールドベスト・カテゴリー」に選ばれた8つの銘柄の中から「ワールドベスト・ビール」が決定するという仕組みだ。
今年は30ヶ国以上から開催史上最高となる1,500もの銘柄が寄せられ・・・
いや、名ばかりの大会じゃないやん!
すごい!
おまけに1500もの銘柄の中から選ばれたですと・・・
そんなビールを輸入取扱いされているとはすばらしいセンスです!!
日本酒メーカーでありながらビールの文化も取り入れて一緒に扱ってしまうとは。
まさしくホームページで企業ロゴの上に書いている
「誰も歩いていない道を行く。」です!!
あっぱれ!すごい!
【伊丹のお酒のはなし】
先日も書いたように、灘五郷ほどでないかもしれませんが、伊丹も酒の生産地として知られており、こちらも「清酒発祥の地」を謳っておられます。
ただ特徴や背景をしっかり知らなかったのでこの機会にお勉強してみます。
伊丹酒(いたみざけ)とは、今の兵庫県伊丹市で産した日本酒の一つで、将軍の御膳酒にも用達された。雅号ふうに丹醸(たんじょう)とも呼ばれる。
歴史
伊丹は、摂津国猪名川上流にある郷村であり、戦国時代は荒木村重の城下町となった。同じ川沿いの池田・鴻池(現在の伊丹市西部)、さらに武庫川上流の小浜(こはま、現在の宝塚市)・大鹿(現在の伊丹市東部)などの郷とともに、室町時代中期から他所酒を生産し始めていた。日本酒の趨勢として、戦国時代に僧坊酒が衰退すると、これらの酒郷は奈良流の製法を吸収し、当時の日本の酒市場で一挙に台頭してきた。
慶長5年(1600年)に伊丹の鴻池善右衛門が、室町時代からあった段仕込みを改良し、麹米・蒸米・水を3回に分ける三段仕込みとして効率的に清酒を大量生産する製法を開発した。これはやがて日本国内において、清酒が本格的に一般大衆にも流通するきっかけとなった。また、これを以て日本の清酒の発祥とみなす立場もあり、伊丹市鴻池には「清酒発祥の地」の伝説を示す石碑「鴻池稲荷祠碑」(こうのいけいなりしひ)が残っている。
伊丹で造られた酒は船で猪名川を下り、大坂湾に出て、菱垣廻船や樽廻船で江戸へ出荷されたわけだが、地元で消費されるよりも圧倒的に江戸に出荷する率が高かった。地元の人はもとより、京・大坂の人もあまり伊丹の酒は飲んでいなかったのである。
寛文以降の幕府の厳しい酒造統制、元禄年間の減醸令、また元文3年(1738年)に新酒一番船の江戸入津は15艘までと制限されたことなどにより、伊丹周辺の酒郷である鴻池、小浜、大鹿、山田などは持ちこたえられなくなって、次第に衰退し消滅していった。すでに財を成し大坂へ進出していた鴻池家は、鴻池という郷村が酒郷として衰滅したあとも豪商として諸方面に活躍し、やがて明治時代以降は財閥となり、平成時代に至るまで三和銀行として綿々と商脈は続いていくことになる。
さて、酒造統制の逆風のなかでも伊丹だけは、領主の近衛家が醸造業を保護育成したこともあって生き残りに成功し、その優れた酒質が評価されて、元文5年(1740年)には伊丹酒の『剣菱』が将軍の御膳酒に指定された。江戸市中の酒の相場をたどっても、伊丹酒や池田酒は他の土地の酒に比べはるかに高値で取引されていたことがわかる。ところが皮肉なことに、伊丹酒にとって真の逆風は幕府の酒造統制ではなく、もっと足下にあったことが後年になってわかる。同じ摂泉十二郷のなかで室町時代から他所酒のライバルであった西宮や、この業界に新規参入してきた灘に、伊丹酒は質、量ともにどんどん追い上げられていくようになった。
西宮や灘は海に面しているので、輸送のためまず川下りから始めなければならない伊丹より有利であったことも挙げられる。
灘が酒郷として最初に文献に登場するのは正徳6年(1716年)であるが、はっきりと江戸の酒市場で伊丹酒を追い上げる新興勢力として確認されるのは、享保9年(1724年)江戸の下り酒問屋の調査で酒の生産地として灘目三郷の名が公に報告書に記載されたときである。これこそ江戸時代後期の灘五郷である。
やがて天保年間(1837年または1840年)に西宮で宮水が発見されると、灘酒はさらに味がグレードアップし、消費者も灘を買うようになっていった。 こうして伊丹酒は江戸時代後期には次第に江戸での販売シェアを灘に奪われていくのだが、伊丹は領主近衛家の計らいで京都に新たな販路拡大を開くことになる。天保6年(1835年)以後、近衛家への年貢として上納する酒という名目で、伊丹酒は公に京都に入ることが許されたのである。
かつては大津酒が京都では他所酒のトップブランドであったが、こうして伊丹酒がそれにとってかわるようになった。
こうした新たな販路を開拓したものの、伊丹酒は江戸末期から明治時代にかけ、大きく衰滅していき、天下に名をとどろかせた『剣菱』『男山』『松竹梅』などの伊丹発祥の酒銘の多くは、灘や北海道などの蔵元に移転・買収されていった。だが、『白雪』『老松(現在は委託醸造)』『大手抦(2006年3月廃業したが、ブランドは2009年に小西酒造が復活させている)』などが、伊丹で往年の伝統を伝え21世紀までに至った。
おぉ、色々とびっくりです。知らないことだらけ。
・「一気に酒市場で台頭」っていうことは「清酒発祥じゃないやん」と思ってたら「伊丹の鴻池善右衛門が効率よく大量生産できる方法を編み出した」ってことでその段階を「清酒発祥」とする説が根強いと・・・
おまけにその鴻池善右衛門さんの鴻池家が、早々に大阪に進行していたため、伊丹酒の衰退に大きく揺るがされることなく明治以降は財閥となり、「三和銀行」を運営ですと・・・私、実家の頃は三和銀行お世話になっておりました。
ここにルーツが。その説はお世話になりました!
・灘五郷が「新興勢力」とされていることも知らなかったし、神戸の人間が誇りに思っている「宮水」ってその灘ブランドを一気に高めることになったのであれば、そりゃあ誇りに思うよね!とかいろいろ腑に落ちました。
・剣菱が伊丹から始まったブランドということも知らなかったです。剣菱酒造さんのホームページ見たら確かに「伊丹から灘へ醸造の場を移しながら・・・」って書いてはります。そして創業1505年!!お酒の事業者って本当に歴史が深い。事業継承も上手にされてはるんですね。
【長寿蔵】
話があっちゃこっちゃ行きましたが。
上記の話だといまや伊丹で大きく酒づくりをされているのは「小西酒造」さんと「伊丹老松酒造」さんのみ。
そんな2つのアンテナショップがすごく近くにあるんでこれは伊丹に立ち寄る機会があれば酒好きは行くしかないっすね!
・外観
・看板
・レストラン入口
・こんなの飾ってる
・オリジナルグッズが手に入る!
伊丹を歩くと本当に白雪のロゴの入った看板を置いている飲食店をいっぱい見ます。
てゆうかネコがかわいいです。
まじでここまで読まれた方は「伊丹酒マイスター」への道のりを歩み出しておられます!
是非伊丹空港へ行く際に、ついででも立ち寄ってみてくださいー!